36歳 教育系エディター

2020年は、本厄なのだ。

安倍首相が二度目の辞任を発表したが、理由とされている(?)潰瘍性大腸炎、それと同じ病気にかかったのは、私が確か17か18のときで、このときも厄年だった。

私は受験生で、センター試験の1週間くらい前まで入院していた記憶がある(死んだ方がマシくらいの辛さだったので、出産の痛みとか屁でもなかった!)。原因は不明とか、食生活の欧米化とか言われているけれど、20年近くこの病気とつき合ってきた自分にいわせると、どう考えてもメンタルからきている、と思う。

2020年1月に大腸内視鏡の検査でまた大腸から出血していると言われた時も、職場の人間関係でちょうど悩んでいて、会社を辞めることに決めた。そして、そのことが、これまでずっと感じてきた「疲れやすさ」とか「生きづらさ」の正体に気づくきっかけになった。

最近わりと有名になってきた(?)らしいHSP、「Highly Sensitive Person」。つまり「すご〜〜く繊細な人」ということらしいんだけれど、自分はどうやら、それみたい。

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HSPというのは脳科学の分野で研究が進められていて、「感覚から得た情報を処理する神経が敏感」な人、ということ。脳の神経の反応が他の人よりも活発で、ちょっとしたことに敏感に反応したり、他の人より疲れやすい人のこと。同じことしてても、いろいろ細かいことに気づいて脳で深く処理してしまうので、脳に負荷がかかったり、気力を消耗する。これがなんと、国籍や性別に関係なく15〜20%いるそうなのだ(結構多いな)。

疲れやすいとか甘えているんじゃないの、と思われる方もいるだろうし、自分もカウンセラーの人に「あなた絶対HSPだよ」って言われても全くピンときていなかった。でも私は、この敏感な気質をもつのが人間だけではなくて動物や植物にも同じ割合で現れることを知って、ストンと腹に落ちた。HSPは敏感だからこその鋭い洞察力や危機管理能力があって、要は生物が生存するために、こういう、妙に敏感で慎重な個体がいるんだ、と思うと、どうにもしっくりきたのだ。

中学生の頃くらいから、「自分は何だか他の人に比べて妙に慎重だったり、考えすぎたり、疲れやすかったりするなあ」みたいに思っていたから。でも、HSPだって考えると、なんかこの気質も、種の生存のために必要というか、一定の役割があるんだなと思って、このままで良いんだな、と思えたのです。

(ちなみにHSPについて説明すると本が書けてしまうので、みさきじゅり先生の『敏感すぎる人の「仕事の不安」がなくなる本』がオススメです!自分はADHDか、アスペルガーか、アダルトチルドレンかも?と思っていて、でもなんかちょっと違う気もする、ともやもやしていたけれど、それぞれとの違いも丁寧に説明されていて、すごく納得しました。何かやっぱり広く知られていた方が良いと思うので、ぜひ読んで欲しいです。)

病気を発症した高校時代って自分にとっては暗黒期で、特に思い出さないようにしていたんだけれど、発症した当時の自分を振り返ってみると、何に悩んでいたのかよくわからない。けど、何かにすごく悩んでいたんだ。勉強のこと進路のことはもちろんだけど、それ以外のいろんなことも混ざった、生き方そのものというか、とにかくいろんなこと。

それで、はじめは結構よかった物理の成績がだんだん落ちてきて、心配した塾の先生に呼ばれて何があったのか聞かれたとき、どうにもうまく説明できなかった。その先生は私が話すのをじっくり待ってくれたけれど、どうにも話しづらそうにしているのを見て、現状の確認をして、私がすべきことのアドバイスをくれた。

体調も崩したし、理学部に入るという意味では受験はある意味失敗したけれど、結局自分にぴったり合った大学(そもそも受験科目に物理化学も数IIBすらないが理学科)に拾ってもらえて結果を報告に行ったとき、こう言ってもらえたのを忘れない。

「他の人とは違う、辛い経験をしたと思う。その経験を、もっているだけじゃなく、他の人に与えてあげる人間になりなさい。」

その先生は東大生のアルバイトだったと思うけれど、教科書には書いていないような本当の物理を教えてくれたし、とても尊敬できる先生だった。数学の先生も、(某大学の助教の人がこっそりアルバイトをしていたのだけれど)教科書はかなり誤魔化して書かれていることとか、行間を読むこととか、考え方の根本をいろいろ教えてくれた。本当の、数学の本質がわかる良書も教えてくれた。

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何かそういうこともあって、ずっと教育にも興味があったし、私は自分の経験を人に与えてあげることができるように、中学理科の本を作る人になった。小学校〜中学まで理科が一番大嫌いだったから、当時の自分が聞いたらびっくりすると思うけれど(笑)理科を無駄に嫌いになることのないように、何十万人もの生徒が使う本をきっちりと、嘘を書くことなく、魂込めて作ってきたことは、HSPの丁寧さとかを存分に発揮できたし、意味があったと思う。

そして2020年、主に人間関係とか自分の気質が災いして腸から出血、メンタルも病んで前職を辞することになったけれど、縁あって、今は新しい会社で、すごいな〜と思える人たちと、AIを使ったアダプティブラーニングで教育のど真ん中を変えようとしている。

変化の遅い学校業界から変化の速い塾業界へとシフトして、思いがけずここでまた塾と関わることになった! 暗黒時代に向き合っていた高校数学や物理とも、再度のご対面。

なんかコロナだし、時短使っていないし、HSPだからまだ疲れやすくって大変なこともあるけれど、スーパーフレックスタイム and 在宅勤務メインにより

  • 朝、ゆっくりしたい!すやすや眠る子どもを無理やり叩き起こしたくない!
  • 自分のペースで仕事したいし、疲れちゃうからあんまり職場に行きたくない。
    でも、交流の場は欲しいし会社に所属したい。

という2つの願いが、思いがけず叶っている(厄払いの成果?)!

人間関係のストレスもなくなった。
なんか確実に前進している感じがする(腸の調子は良くなった)。

あのころの悩んでいた自分みたいな人、つまづいている子どもを1人でも救えるように
この調子で、ゆっくりと自分のペースで、自分の理想に近づけるようにしていこうっと。

 

…最後に、どうしても書きたいのだけれど、(書いた方が実現しそうだし!)

日本の人働きすぎだよね?
1日8時間も仕事(アウトプット)し続けるのはしんどいよね?!

逆に、勉強するのは好きだから、1日2時間くらいは(仕事に関わることにするから)インプットに充てたい。
仕事(アウトプット)は1日4時間勤務とかにしたい! このバランス、大事。

次はこのバランスをとれるようにすること、目標にしてがんばろ〜〜〜っと。
K痔

45歳 経営コンサルタント

私達の生活は、思った通りにいかないことの連続だ。そんな日常をみな辛抱強く生きている。

ただ、大半の場合、それは日常という前提があった上での話である。

しかし、今回のコロナウィルスの蔓延で、そのような生活の前提が吹っ飛んでしまった。外出自粛によって仕事にはキャンセル・遅延が発生。卒業式・入学式も通常通りには開催できない。準備していた講演会や目標としていた試合も中止となった。

そんな「生活の強制終了」をどう乗り越えるか。

そのヒントになればと思い、1年半前に私が完全なる「人生における電源オフ」を迎えた経験を振り返ってみることにした。

 

・・・

 

2018年の定期健康診断は、例年と同じ病院でいつも通りの検査を行った。いつもと違ったのは、数日後に電話がかかってきたこと。電話先の看護師が明らかに動揺している。

「詳しいことはお電話では話せません。すぐにクリニックに来てください」

当時の私は、単身赴任中の旦那の代わりに両親に助けてもらいながら、小学校1年生と5年生の娘を育てていたワーキングマザーだった。

日々パンパンに予定を詰め込んだ生活をしていて別のタスクなど入れようもなかったのだが、看護師の様子が尋常でなかったため、なんとか段取りをつけて夕方クリニックに向かった。

 

クリニックの医師は、慎重な精密検査を受診する必要があると説明しつつも、

「白血病である可能性が極めて高い」

と言い放った。

何かの間違いではないのか、と私は全く納得しなかった。自覚症状はゼロで、かつ、2児を育てながらコンサルタントとして働く超多忙な生活をその日までこなしてきたからだ。

だが、私の希望的観測とは裏腹に、翌日大学病院で精密検査を受けた後、

「白血病と診断されます」

と宣告を受けたのだった。

 

文字通り目の前が真っ暗になる経験を人生初めてした。うなだれる、というのがもっと正確かもしれない。

あと何年?何か月?生きられるのだろう。

まさに死神がすり寄ってきた気分だった。

 

呆然として顔を上げることが出来なかった私に、医師が言った。

「白血病は不治の病のイメージが強いですが、今は治る病気なんですよ。ただ、治療に時間がかかります。最低6か月」

(え? 今は治すことができるの? 先生、それを早く言ってよ!!)

そして私が間髪開けずに発した言葉は、

「じゃあ先生、治してください。 私はどうしたらいいですか?」

だった。病気になったら治すしかない。私のマインドはその瞬間から治療にフォーカスされた。

 

本来ならすぐにでも入院だが、今日は帰宅を許可するので必要なアレンジしてもらい、明日からの入院にしましょう、と医師は言う。

  • 7月25日 健康診断受診
  • 7月29日 クリニックからの呼び出し
  • 7月30日 精密検査後の白血病発症の宣告
  • 7月31日 大学病院入院・治療開始

まさに、すべてが強制終了だ。

 

仕事は当然休職となる。感染症予防のため、オフィスなど多数の人がいる場所には出入り禁止。電話やメールで会社とのコミュニケーションを行うこととの指示。

無菌室が完備されている白血病病棟には中学生以下は入れない。ただし、白血球の数値が高い時期は、私が共有スペースに出て、子供と面会することは可能。

信じられないレベルで自由のない入院生活が、突如としてスタートした。

 

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実際に受けた抗がん剤と輸血の点滴

 

そんな想定外のビッグチェンジ。それを乗り切るために、いくつか心がけたことがある。まず第一に断言できるのは、「人生における電源オフ」が起きたときには、発想の転換をしてしまうしかない、ということだ。

自分がリーダーをしているプロジェクトはどうしよう?

子供の世話は?

中学受験に向けて勉強している長女の勉強はどうする?

明らかに、今までのような日常生活を続けることは不可能である。正直、1-2か月の入院だったら、計画通りに事を進めようとしていたかもしれない。ただ、私の場合、治療期間は最低7~8か月となることが分かった。さらに、病棟には1年超入院している方もちらほらいた。そんな極端な状況だったので、完全なる白紙撤回をすぐに受け入れることが出来た。

今までの生活のTo Doを捨てると、気持ちは軽くなる。そして助けてくれる人が確実にいる。窮地に陥った時は、周りの皆の胸をかりて、はじめから大いに頼ってしまうのが一番だ。

 

次に重要なのは、くさくさ・いじいじしないことだ。

「なんで私だけ病気になるの? 私がなにか悪いことしたの?」

など、考えただけ無駄である。主治医に白血病発症の原因を聞いてみたが、

「白血病は原因不明なんです。交通事故にあったと思って下さい」

と返された。深く考えすぎて自分を責めてもなにも生まれない。病気になったら治療に集中して、淡々とやれることをやるのみなのである。

 

3つ目は、シンプルな生活ルールの順守。私が入院生活で心掛けたことは、

「ちゃんと食べ、筋力低下を防ぐための努力をして、ストレスをためないこと」

私は複雑な医療の情報を求めるより、この単純な原則に耳を傾けた。

抗がん剤治療中でも自分が食べられるものをどん欲にサーチし、なるべく三食食べるようにした。筋力維持のための運動は、もっぱら病棟のバイクを利用したが、元気になる音楽(私の場合は、辻井伸行さん演奏のショパンのエチュード)を聴きながら体調の良い日はできるだけ継続を心掛けた。

ストレスや不安をためないように、(治療ブログは武勇伝的な部分があり、辛い内容が満載な場合があるので)同じ病気になった人のブログは読まなかったし、知っておくべき基礎的な知識以上に、細かな医療情報を求めないように心掛けた。

 

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病室から毎日眺めた東京タワー

 

振り返ると、「人生における電源オフ」を乗り越えるのに大切だったのは、

  • 発想の転換
  • 自分を責めない
  • シンプルな生活ルールの順守

と、実に単純なことばかりだ。

これらの心掛けが功を奏して、私は9か月の入院生活を無事に終え、2019年春に無事退院。その後、順調に健康な生活を取り戻せている。

さあ体調も戻ってきたので、どんどん活動範囲を増やそう!…と、楽しみにしていたところで、コロナウィルスが蔓延。肺炎は、白血病患者にとって命取りになる最大の敵である。大変な事態になってしまった。

 

でも、やるべきことは分かっている。

 

またいつか行けるはず、と中学受験を頑張った長女と行くはずのパリ旅行をキャンセルし、卒業・入学関連のイベントも白紙にした。

入院生活に比べたら、家で子供達と過ごすのは断然楽しく快適だと、ステイホーム生活を受け入れることにした。やりたくてもやれていなかったことに挑戦するのは、楽しかった。ホームベーカリーを購入してパンやピザを作ったり、ベランダガーデニングに手を入れハーブ栽培を始めたり。新たな知識やスキルが身に着いた自分が、誇らしく思えた。

子供との散歩やバトミントンを日課とした、リズムある生活をコツコツと続けた。その結果、3か月におよぶステイホーム生活後に受けた血液検査で、100点の結果が出たのだった。

コロナ禍での経験からも、入院生活で学んだ3つの術は機能することが分かった。今後、生活を一変させるような出来事が起きた場合も、3つの術をベースに淡々と生活していこうと思う。

 

記:ポチコロ

35歳 フリーランス

小学校の卒業式の壇上、「大きくなったら国家公務員になりたいです」と言ったことをよく覚えている。他の子が保育園の先生になりたいとか、サッカー選手になりたいとか、小学生らしい宣言をするそばで、だ。

その後校長先生に、国家公務員って言ってもいろいろあるけどどんなことがしたいの、と聞かれて、「よくわからないけど安定した収入があればなんでもいいです」と答えた。

なりたいものなんて特になかったから、万年係長の地方公務員だった父と、地方出身で安定志向な主婦の母に、言われたとおりのことを口走ったんだろうと思う。

それなのに。

今、安定とは3万光年くらいかけ離れたフリーランスの仕事をしている。明日、来週、来月、今と同じ仕事をしているかどうか、さっぱりわからない。そもそも、仕事があるかどうかすらわからない。

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しかも「そうだ、フリーランスになろう」と一念発起してなったわけでもなんでもない。自分のしている仕事の幅が広すぎて理解してもらうのが難しいので、職業はフリーランスですと言っているだけである。こんなに便利な職業名があって、本当に助かった。

ここ最近は、多くの人の活動や発信のおかげで、「フリーランス」という職業はとてもイメージアップしている気がする。WeWorkみたいなおしゃれなシェアオフィスで、赤ちゃんを片膝にのせながら、りんごマークのラップトップをカタカタしている感じ(当社イメージ)

でも実際は、残念ながら大分違う。

おしゃれなオフィスにいる時もあるけれど、それはクライアントの素敵なオープンスペースに居座っている時。りんごマークのラップトップの日もあるけども、それはクライアント支給品で確実に私のものではない。片膝に乗るようなかわいい赤ちゃんはもういなくて、実際は「お母さんiPadやらせて〜」と3歳児が背後でエンドレスにごねている。

例え、素敵オフィスにりんごマークのラップトップな日があったとしても、そんな日は続かない。契約期間がいずれも短いので、違うクライアントの元を転々とするのが常なのだ。今までの人生で同じオフィスに通った経験は、最長でも2年。6年間通った小学校の校舎の方がよっぽど思い入れがある。

こんなふうに、今の私は安定とは程遠いことを収入源として生きている。

でも逆に言えば、そんなとてつもなく不安定なことをしても、生きていける程の収入にはなっているのである。(念の為言っておくと、夫も私と同じことをして食べているので、彼に頼っていれば私は何をしていても良いというわけでもない)

一方で、極めて安定しているものもある。

それは自分の勤務時間と家族の生活リズムだ。こちらはシアトルで仕事を始めた6年前から、ほぼ変わりない。

毎日9時ごろにラップトップを開いて、メールとスケジュールに一通り目を通したら、9時半くらいからカンファレンスコールの波が始まる。正午から1時までは、ランチ時間と称した自由時間を切り取って確保してあって、その時間に遠くの知人とZoomでキャッチアップしたり、散歩がてらランチを買いに出かけたり、気分転換に洗濯物を回したりする。

どんなに遅くても5時半くらいには店じまいをして、適当に夕飯をこしらえる。家族で夕食を食べたら、その後近所のジェラート屋さんまで散歩に出かけたり、家から徒歩3分の湖にプカプカ浮かびに行ったり。7時にちび達をお風呂に入れて、ごろごろしながら本を読んで、9時に消灯。私はその後、シャワーを浴びて、遅くても11時には寝ている。

フリーランスという形態になってからは、毎日どこか決まったところに通勤するということもあまりない。コロナウイルスが広まった今、これは相当先まで変わることはないだろうと思う。そんなわけで私の通勤路は、大抵ベッドルームからリビングルームまでの5歩だ。

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そりゃもちろん大変なことだってあるけども、毎日が比較的ストレスの少ないとても平穏な日々である。

国家公務員にはならなかったけど、安定した生活って、割とこういうことなんじゃないだろうか。勤務先がつぶれても、リストラにあっても、したたかに食べて、楽しく生きていくスキルとネットワークを身につけて、娘は大きくなりましたよ。ね、お父さん、お母さん、そして校長先生。

 

記:なべ

34歳 無題

いつかここに作文を書きたいと言っていてくれたお友達が、天国に行ってしまいました。

いつか闘病を振り返って書きたい、と言ってくれていたのに。

天国まで原稿を追いかけるわけにはいかないので、彼女の思い出に、無題の作文を投稿します。

ほーら載せたよ。本当に載ってるよ。

ご冥福をお祈りします。

記: 管理人

35歳 事業立ち上げ屋

「そうだ、片付けをしよう。こんまりをしよう。」

そう思ったら居ても立ってもいられなくなった。仕事なんかしている場合ではない。可能なら子供の迎えもスキップしたい。今、私の人生に足りないのは片付けだ。

 

 

去年の春、こんまり熱は唐突にやってきた。

その頃、私はミッドライフ・クライシスを迎えていた。(男性のミッドライフ・クライシスは40代なかばだけど、女性の場合は30代半ばに来るんじゃないかと思う。厄年も女性が30代で男性が40代だし!)

人生、なにがしたいのかわからない。なにが大事なのかもわからない。目下取り組んでいる事業は失敗した(いや、もっと正確には全力でダイブしてチャレンジしきる前に足がすくんでジャンプしきれなかった)。確固たるキャリアの軸もない。どこに住みたいかもわからない。気づけばアメリカに長くいるけど実は日本に帰りたいのかもしれない。いや、本当は途上国で働きたかったはずだ。

私の人生はまさにモノがあふれて片付かない家のようだった。

 

 

そんな中、たまたまこんまり本のオーディオブックを聞いた。「片付けをすれば人生が劇的に変わる」という謳い文句が圧倒的な説得力を持って胸に迫ってきた。ご存知の方も多いと思うがこんまりの片付けは「ときめき」ベースだ。すべてのモノを出し、手にとってみて「心がときめくか」どうかを自分に問い、心がときめかないものを捨てるのである。この人生の混乱を乗り越えるためには、目の前の服一着一着、お茶碗一つ一つと向き合い、心がときめくものを選別するしかないのではないか。モノで心のときめき感度を高めたら、人生のほしいものもわかるのではないか。そう思ったら人生の最優先課題が片付けのように思えてきた。

 

* * *

 

少し立ち戻って説明すると、私は35年間、よく言えば変化に富んだ、悪く言えば脈絡のない人生を歩んできた。小・中・高を日本で過ごし、大学はアメリカに留学して化学を専攻した。研究者になりたいと思って留学したが、持ち前の浮気性で研究の外の世界が見たくなり、学部卒業後はビジネスコンサルタントとして働いた。その間誘われるままに国連でインターンし、国際開発の世界に目覚め、大学院は再びアメリカでMBAと開発経済学の修士号をとった。そこから途上国開発をやっていればもう少しキャリアの説明もついたかもしれない。が、いかんせんビジネススクールをやった場所が悪かった。シリコンバレーのど真ん中でスタートアップが勃興する世界を見て、つい営利事業を通じて社会問題を解決したいという思いを強めてしまった。(なによりベンチャーの世界は楽しそうだった。)

 

大学院の2年目、日本でインターネット事業を立ち上げ成功させた起業家の人と会って、北米事業の立ち上げに誘われた。「世界の食問題を解決するサービスを立ち上げたい。世界に通じるサービスを作るならアメリカからだ」そんなような誘い文句を聞いて、それは一理あるかもしれない、と思った。そうして、私はそのままシリコンバレーに残った。

 

そこから6年。なんとも落ち着かない、ドラマの多い6年間だった。

食の新規事業立ち上げは実に大変だった。最初の1年間はアイディア出しとプロトタイプの繰り返し。ようやく立ち上がった一つの事業はなかなか「実験単位」レベル(チーム5−6人で回して月数万ドルの売上があるレベル)を超えなかった。振り返れば私の実力も圧倒的に足りなかったし、社会課題を解決するという理想と営利事業の現実の間の乖離が大きすぎて、ビジネスモデルの難易度が高すぎた。最後はもめた末に北米事業を閉鎖することになった。

 

その後は「別れた恋人の反動」で遺伝子検査を手がける社員700人の大型ベンチャーに入った。その業界を選ぶにあたって自分なりにいろいろなロジックと人生プランがあったはずなのだが、入社して数週間でどうしてそれを選んだのか自分でもわからなくなっていた。日々生活を営む分にはこの仕事はそこそこ楽しい。が、本当に私はこれがやりたくてシリコンバレーに残ったのか。社会課題を営利事業で解きたかったのではないのか。

気づけば、よなよな子供の落書き帳を引っ張り出してきては、悶々とやりたいこと、作りたい事業を書き出すようになっていた。

 

一人ブレストが1年弱続いていたころ、大学の友人でテック系ベンチャーのCTOをやっていた友人と一緒に事業をやる話が持ち上がった。その友人は営利事業のベンチャーに疲れ、社会課題を解決する事業をやりたいとネタを探していた。2人で一緒に事業を立ち上げようと、週末ごとに集まってブレストをするようになった。私の悶々っぷりを見ていた夫も週末に子供の面倒を見てくれ、全面的に協力してくれた。

 

食、医療、金融と、社会的弱者の問題を解決する領域でアイディアを出し続け、最後にプロトタイプを作るのを選んだのは子供の保育の領域だった。アメリカの保育園は全額自己負担のため、子供一人あたり月間10−20万円の出費がかかる。かつ保育園は休みが多く、そのたびに仕事を休んだりバックアップの保育を頼む必要がある。またフリーランスやパートタイム・シフト制の仕事をしていると保育園の確保がますます難しい。そこで保育園の一時的な空きスポットをオンラインで検索し予約できるホテル予約サイトのようなサービスを立ち上げたのだった。

 

始めの半年は共同創業者ともども仕事の傍らひっそりとテストしていたが、親御さんからの予約数がある程度増えた頃、思い切って仕事をやめた。2人目の子供を妊娠して8ヶ月の時だった。このまま仕事を続けて産休を待っても良かったのだが、それを待って事業のモメンタムを失うのが怖くて、共同創業者に先駆けてフルタイムで飛び込んだのだった。

 

飛び込んでみたら、食の新規事業立ち上げ以上にストレス負荷の高い生活になった。事業の数字が思ったよりも伸びない。開発が思うように進まない。なにもかもが自分ができると思っていたレベルの10分の1もできなくて、ますますそれがストレスを高めた。人を雇う資金がないままに飛び込んだのも良くなかった。1日のかなりの時間を一人で考え作業することになったからだ。エンジェル投資家のもとを周り、資金調達もしたのだが、最後の最後、これに人生をかける自信が持てずに投資家にお金を返すことを決めた。ようするにビビって飛び込むこと自体をやめたのだ。

 

ここまでがこんまり熱の2ヶ月前までに起きた。いやはや、かっこ悪い人生だ。

 

* * *

 

さて、話は戻って、こんまりだ。さっそくいくつかの週末をかけ、服を捨て、小物を捨て、キッチン用具を捨てた。いままでモノをためてばかりだった私が突然片付けを始めたので夫が驚きおののいた。片付けに向き合ってみると、確かにここに人生の答えがあるような気持ちになってきた。

 

とはいえ、人生は相変わらずミッドライフ・クライシスのままだ。とにもかくにも、もがき続けてみた。周囲に相談してみたら、幸運にも知り合いの方がマーケットリサーチの仕事をくれた。1社、2社とお話をいただくうちに、複数のプロジェクトのコンサルティングをさせてもらう機会に恵まれた。これらの仕事は本当に私を支えてくれた。振り返ってもこのフリーランスの期間がなかったら、私はすっかり自分に自信を失ってしまっていただろう。

 

こんまりをやり、コンサルをやり、もがき続けること6ヶ月。

今年の1月から私はコンサルティングをしていた会社のうち一社でフルタイムで働き始めた。業界は、なんと、巡り巡って遺伝子検査だ。前職の会社の同僚に誘われて手伝っているうちにすっかりその会社が気に入って入社してしまった。私以外は全員サイエンティストの弱小7人の新興ベンチャーで、製品事業化のリードをしている。

そして前職の悶々とは打って変わって、私は毎日がとてもハッピーだ。

 

今の会社と出会って、自分が人生でなにに心のときめきを感じるかが少しだけわかった。

例えば、

・700人の会社よりは7人のほうがが好きだということ(だから前職よりも今のほうが楽しい)

・全員理系の会社でちょっとオタクな科学ネタで冗談を言い合うのは無性に楽しいということ(こういう知的な刺激が食と保育事業には足りていなかった)

・「社会課題を解決する」方向に向いていれば実は業界はどこでも良かったのだということ(今の会社の技術を使えば遺伝子検査をアフリカ・アジアにも持っていけるのでわくわくしている)

・なんだかんだ事業の立ち上げはとても楽しいということ

 

そして、なにより、私の人生の幸せの大半は、実は仕事ではなく、家族との日々の生活から来ている、ということ。

 

この仕事に決める前、日本に帰国して仕事をするオプションも真剣に検討し、実はそちらのオプションに決めかけていた。

そちらにしよう、と決めたその次の日、朝から心が沈み、昼頃には泣き出しそうになるくらいにみじめな気分になっていた。こんまりで言うなら、その仕事を手にとってみたら、(客観的にはすごく良さそうだったけど)心がときめかなかったのだ。

 

そうして、本当に遅ればせながら、自分で自覚している以上に、私には家族との日常の幸せが大事だったのだな、と悟った。今の仕事は、自宅から10分のところに仕事場があるのも幸せに大きく貢献している。こういう「心のときめき」はこんまりをやる前だったら気づけていなかったかもしれない。魔法の片付けに感謝だ。

 

* * *

 

10年前の私は、やりたい仕事は単純明快な「志望動機」で説明しきれるのだと思っていた。「飛行機が好きだからパイロット」「お金持ちになりたいから金融」云々。

 

今は、やりたい仕事は、案外こんまり的な「手にとって試してみて、心がときめくかどうか」のプロセスで見つかっていくのではないかと思っている。片付けのこんまりは結局、すべての家の持ち物で終わらせることはできなかったけど、一部でも取り組んで本当に良かった。

 

すっかり長くなってしまった。こんなかっこ悪い人生の共有をして役に立つのか心配だけど、誰かの人生になにかのきっかけを与えられますように。

 

記:SR

 

↓写真は夫と子どもたち(下の子供はベビーカーの中。。。)

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35歳 国際公務員

揺れ動く気持ちになかなか整理がつかず、この作文のお話を頂いてから一年も経ってしまいました。でも、ようやく心の整理がついてきたので書けるかな。

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大学卒業後に就職した報道機関から、海外留学中の出産を経て34歳で国際公務員に転身。任務地は、紛争地。家族の同伴や呼び寄せはできず、夫(日本人)と幼い娘と離れて暮らす単身赴任生活は1年を越えた。

娘はこの間2才9ヶ月になり、たくさんのことができるようになった。オムツが取れ、一人でお着替えができるようになった。滑り台の上り下りができるようになり、お絵描きの精度が上がり、プールや海が楽しめるようになった。たくさんの童謡を歌い、童話の音読ができるようになった。発する言葉は「音」から文章に変わり、「会話」が成り立つようになった。

この単身赴任生活、とても寂しいし、家族がとても恋しい。着任直前の一年前、胸が張り裂けそうで、飛行機の中でわんわん泣いた。別れの辛さは一年経っても変わらないし、一時帰国からの復路の機内では毎回涙が溢れ出る。娘の日々の成長の瞬間や喜びを共有できない歯がゆさは今も変わらず感じているし、一日も早く家族一緒に暮らせる日を迎えたいと努力している。でも子どもや夫への罪悪感があるかというと、ちょっと違う。今ではそう明言できるし、明言することを憚らくなくなった。一年を通じて変化した思考や感情は以下の通り。

1.遠くから愛情が届くのか不安で仕方なかった。

→ 娘には、たっぷりと愛情が届いている。単身赴任パパが一時帰国すると家庭の中に居場所がない、という昔から誰からともなく伝え聞いてきたステレオタイプのストーリーに囚われて、不安を増幅させていたのかも。そんなこと、全然ない。テクノロジーのお陰で、かつての単身赴任とは全く違う経験ができているのかもしれない。日々のやりとりや一時帰国を通じて、娘との絆はしっかりと結ばれていると確信を深めている。愛情が届いていれば大丈夫。今では、そう自信を持って言える。

2.子育てとキャリアを二律背反させたくないと志向してきた自分との自己矛盾。子育ての第一線から離れる恐怖や焦り。

→ 遠方からでも子育てしている、と素直に思えるようになった。そもそも、子育ての第一線ってなんだろう。うん、確かに日常の家事はしていないし、娘により多くの時間を注いでくれているのは紛れもなく夫だ。でも語弊を恐れずに言えば、注ぐ時間の長さ(労働集約的な子育て)でのみ愛情が届くという考えは一切なくなった。娘に届く愛情の大きさや深さは、注ぐ時間の長さにのみ依存しない(子育てとキャリアは両立中!)。

3.究極的には(選択せざるを得ないのなら)、物理的に近くにいる庇護者がひとりであったとしてもいいじゃないと考えて決断した単身赴任だったけれども、根拠となる何かしらのデータや裏付けがあったわけではない。選択せざるを得ない(できる)環境にあるなかで、あえて親ひとりの環境を作り出し選択することがいかなる帰結を生むのか不安。親業に性差の違いはないだろうという推測もまた、推測の域を出なかった。遠距離のせいで娘が動揺したり、家族の誰かが大きな怪我や病気に直面したら、家族のあり方を即座に見直そうと一年前家族会議で決めたのだけれど、「動揺」を測る明確な指標があったわけでもない。だから、正直、恐る恐る、この生活に乗り出した。

→「母親しか注げない愛情」や「母親しかできない役割」なんてこれっぽっちもなく、親業を担う上で性差による優劣はないだろうという推測は、娘の発育を観察する過程で確信に変わった。また私たちカップルにおいては、どちらかひとりを選択せざるを得ない(できる)のであれば、夫のほうがワンオペ育児力のキャパが大きいかもしれない、という読みも外れてきていないようである。「母親は子どもの近くに常にいるべき」という信念や価値観はこれっぽっちも持たなくなった。この心情の変化(恐る恐る→確信)は、娘を育んでいる環境に、圧倒的な信頼と自信が持てていることが大きい。そんな信頼と自信を持たせてくれている娘と夫には感謝と敬意が尽きないし、ナニー、シッター、デイケアの先生など、周りに愛情を注いでくれる人がたくさんいることも、本当に大きいと感じている。

4.「周り」の評価も気になった。「母」である私の単身赴任という決断は、価値観が近いと感じるごく限られた友人にしか伝えることができなかったし、「子どもがかわいそう」「母親は子どもの近くにいるもんだ」と言われる度に、娘は「かわいそう」なのだろうか、と深く考え込んでしまった。

→ 他人の評価は気にならなくなった。時折、「彼女(娘)が大きくなったとき、君の決断を誇りに思うだろう」と声を掛けてくれる人もいて、そんな言葉に励まされている。

5.新たな挑戦をする夫の成長を間近で応援できない歯がゆさ。

→ 私が単身赴任を決断した一年前、実は、夫も大きな決断をした。10年以上勤めた日本政府関係の職を辞し、米国にてそれまでの専門とは異なる博士課程への進学に舵を切った。実現したい社会を目指してお互い支え合い、磨きをかけて生きていこう、とパートナーとして歩み始めて5年。夫は、互いの分身のような存在である。夢の実現に一歩を踏み出す夫に対する最大の応援は、やりたい仕事を続ける妻・母であること。それぞれがやりたいこと・好きなことを後押しできる家庭環境は、娘の発育にもいいに違いないと家族会議で話し合って決めた。うん、だから歯がゆさは今だってあるけれど、近くにいることを優先させて、どちらかが夢やキャリアを諦めて、覇気を失っているよりも、ずっといい循環が生まれているよう感じている。

家族・子育てとキャリアとの間で下した、単身赴任という決断。苦渋の選択だったけれども、不安を払拭し、新たに形づくられた価値観に支えられて今も続いている。

そんな仕事も、もちろんバラ色ばかりではない。責任範囲の狭さや組織の意思決定の遅さが歯がゆいし、この生活を変えなくてはとの焦燥感や慣れへの危機感と背中合わせの日々。過ぎていく時間と比較して十分に価値がある経験を吸収し、存分に価値を発揮できているだろうか。あの日から、毎日、自分に問いかけるようになった。時間は遡らないし、自分の決断を嘆くことだけはしたくない。いや、しちゃいけない。だからこそ、今この瞬間、目一杯できることをやりながら、もっと効率よく時間を使い、もっと多くのことをより早く吸収し、もっと効果的に価値を発揮する方法はないか、毎日、何度も何度も反芻している。一日も早く、愛する娘と夫とともに暮らせる日がくるように、なんとか自分を鼓舞している。

肩の力、抜けているような抜けていないような。それが、今の等身大の自分。

1年後、36歳の私は、3歳9ヶ月になった娘の側に戻っていたい。そして3年後、38歳の私は、5歳になった娘に自信をもってこの時の決断を語りかけられるように、生きていたい。

記:アプリカヤ

↓ 住居は15平方メートル(6mx2.5m)コンテナ

↓宿営地敷地内

↓一時帰国の際の機内から

44歳 母親業

結婚してから、気が付いたらもうそんな歳になっていた。

結婚する前は、日本の田舎で子供たちを中心に英会話教室を開いていた。夏にはホームステイでやってきた留学生たちと交流したり、レッスンでは子供たちと一緒にビーチコーミングをしたり、車いすを借りてタオルとサングラスを使って目の不自由な人の生活を想像してみたり、点字や手話、ヒエログリフなども学んだ。教室の壁をみんなでペンキで絵を描いてみたり。とにかく私が子供たちと一緒に学んでみたい!やってみたい!ということをとことんやった。

英語は学ぶきっかけであり、そこから世界や自分が生活している身近な物事へと視点を変えることで、何かを感じてもらえたらいいな、という願いを込めてクラス運営をしていた。英語を使う機会はとても少ないかもしれない彼らの環境の中だけれど、比べることから新しい世界が見えてくることの楽しさと面白さを学べる環境づくりを徹底して作り上げた。

お蔭でほとんどの生徒さんは長く通って下さり、中には兄妹3人、またはお父さんお母さん息子さん家族全員で通ってくれるなど、息の長い関係を作ることができた。高校生だったある女の子は不登校だったけれど、アメリカに留学し今では地元で英会話教室を開いている。そんな子供たちの成長を間近で見ることができた、とても充実した生活だった。

そんな自分の居場所である教室も始めてから10年が過ぎた頃、古い友人だったアメリカ人の彼とあれよという間に結婚へと話が進み、私は彼の住むアメリカへ引っ越した。

そして、幸運にも結婚してすぐに息子を授かった。

***

ここから私の母親業は始まった。

息子を授かってからジェットコースターのような毎日。息つく暇がないとはこのことか。なにせつわりが酷い。起き上がることもままならず常に辛い。こんなに辛いならお腹の赤ちゃん大丈夫なんだろうか?いつも不安でいっぱいの毎日だった。

そんな心配と命の重さに圧し潰されていた私も難産の末、やっと我が子に会えた。生まれてからも、とにかくよく泣く赤ちゃんだった。彼の成長が楽しみだなぁ、というわくわくはほとんどなかった。不安でいっぱい。勿論子供らしい愛らしさを可愛いと感じて育ててはいた。でも、いつも心の底にある不安。私にとってとても育てにくい赤ちゃんだった。

私ってきっとダメな母親なんじゃないか?こんなに心配ばかりして、彼を信頼信用しきれていないってこと?それとも私には母性というものがないのかもしれない。周りで、子育ては大変だけれど、子供はやっぱりかわいいよねー、なんて声を聞くたびに家に帰って落ち込んだ。だって、大変しかないんだもの。

加えて義理の家族との関係に心が消耗した。私が経験したことがないことばかりがガンガン押し寄せてきた。人間不信にもなった。ついでにアメリカ人不信にも。これってアメリカ人だから?それともうちの義家族だから?なんて考えていたら心がパンクした。

***

それでも、今思えば息子が1~2歳くらいの頃は、彼の成長を感じられてとても幸せだったように思う。彼がまだ歩き出して間もない頃、歩きたくて仕方のない時期。お散歩していると下水溝の蓋の上を歩いたら音が鳴った。彼は振り返り、私を見つめ蓋の上に立って足踏みしてる。その顔は好奇心でいっぱいだ。

言葉が話せるようになった、ある風の強い日。外では枯れ葉がからから音を立てている。「ねぇ、ママ。外の音は何?葉っぱ?葉っぱさんがくるくる踊ってるね!」初めての育児をしている私は息子の感性に驚き、一人の人間の人生初体験を一緒に体験できることは、こんなにも発見があり毎日が面白いものなのか!と楽しかった。

でも、それと同時に、彼の癇の強さとこだわりの強さから、育児サークルのプレイデートに参加しても、私はいつもあちこち好奇心いっぱいに動き回る彼を追いかけることで精いっぱい。他のお母さんとゆっくりおしゃべりなんて夢のまた夢…。家に帰ってなんだかとっても惨めな気持ちがした。周りの子供たちがちょっと年上で女の子が多かったこともあり、男の子ってこんなに違うの?それともこの子が違うの??と考えるばかり。

それから色々プレイデートに誘ってもらっても、結局は同じ繰り返し。いつからか、私は息子と二人だけで彼がしたいことをとことんさせてあげよう!と思うようになった。そうなったら気持ちも落ち着き、彼の好奇心いっぱいの顔を見るたびに、これで今はいいんだ、と思えるようになった。

***

そして息子もいよいよ団体生活の時代へ突入。彼が5歳になる年に娘が生まれた。

保育園では具体的に先生方から色々注意を受けることはあまりなかったが、小学校幼稚部に入学してからは、息子が同学年の他の子供たちと比べて繊細で傷つきやすく、行動も少し幼いように思えた。

幸い担任の先生方は愛情を持って接して下さっていたので、息子自身は楽しく学校へ通っていた。でも、息子が小学2年生になってから彼の心は変わっていった。担任の先生方が全員変わり、生徒たち、そして彼への対応が大きく変化したからだ。

彼だけではない。クラス全員先生に対する不信感が生まれたのだと思う。息子のクラスは崩壊した。息子も学校で荒れた。そしてとうとう学校に行かなくなった。理由は、「先生が怖い。」きっと相当ダメ出しをくらったのだろう。

私は無理して学校に行かせることはしなかった。尋常じゃない息子のストレスの様子から、私と夫は発達障害専門の心理士に診断をお願いした。

***

結果、発達障害と聴覚過敏(感覚過敏も少しあるように見える)という診断がでた。それに加えて「うつ気味の症状がでている」「不安感が強い状態である」とも診断された。診断した心理士曰く、うつの状態は学校の先生方が彼の特性を理解していないことから起きているようだとのこと。

発達障害について記事やコラムを読んでいると時々目にするのは、「障害は特性そのものではなく、その人の環境や周りにいる人々の言動が障害となる」というもの。彼の置かれた環境は正にその通りの状態だった。

良く言えば根はやさしいが、子供らしくやんちゃで正直。でも悪く言えばじっと座っていることが難しく、言葉よりも行動が先に出る。親の躾がなっていないんじゃないか。そんな風に思われているんじゃないかと、周りの目に毎日怯えて暮らしていた私。自分はダメな母親じゃなかったのかもしれない、とやっと思えた。私なりにいつもベストを尽くしただけだったんだ。

でも、他の子ができてこの子ができない。それが理由で彼が発達上できないことまでを期待し、必要以上の無理をさせていたのかもしれない。そんな自分はやっぱり自己中心的でダメな母親だったんじゃないか。自分の気持ちを内に溜めてしまうがために、言葉にできず、怒りと泣くことでしか表現できなかった、純粋で親思いの息子。本当に申し訳なかった。

2年生の時の学校での様々なできごとは、息子の小さな心に大きな影を作ることになった。自己肯定感の低さ。自分が大嫌い。だっていつも失敗ばかりする。すぐに忘れちゃうし。そんな「できない」自分が彼自身一番許せないのだろう。知的障害を伴わなず、むしろ知能が年齢よりとても高いがために、彼の学校生活は穏やかにはいかない。

今年の担任の先生方は、二人ともプロフェッショナルな仕事をしてくださっているので、息子も心を開いてきたようだ。彼の心が安定しているときのリーダーシップは素晴らしい!と、先日の面談でもたくさんの先生方が仰ってくださった。でも息子本人はまだまだ不安と自信のなさが故に不安定な日もあるようだ。

自己肯定感が低く、友達とどう「ほどよい関係」を作ったらいいのかわからず、最近は幼馴染だった女の子とも時々ぎくしゃくしている。男子は男子だけ、女子は女子だけで遊ぶ、という考えがあることは理解していても、息子は性別で遊ぶ相手を分けたりしない。でも、幼馴染の女の子は段々そういうお年頃になってきているのかもしれない。

新年度が始まってちょっとしてからも、時々ぼそっと「転校したい。」とこぼす日もあった。昨年度まで仲良かったクラスメイトが転校してしまい、息子はまた新しく友達を作り直さなければならなかった。一番苦手な分野に彼がどう対応していけるのか、気を揉んだりもした。

そこで最近は、彼が好きなことを休み時間にしてみたらどうかと提案してみた。コミック本、グラフィック本が大好きなので、漫画のキャラクターや自分で作ったキャラクターなどの絵を描いている。休み時間も絵を描いてクラスメイトにあげたりして、新しいコミュニケーションを作りだしているようだ。この調子で彼が心地よい時間を学校で過ごせて行けるといいなと願っている。

***

息子の体験から、私自身が学んだことがある。「正しい」「正しくない」という二極の環境の中に半年以上いた幼い子供たちの心の変化をまざまざと見せつけられるなかで、こんなことを感じた。

教育ってなんだろう。先生である前に一人の大人であるということと、先生と言う立場。子供という立場。この立場の優越について先生方はどう感じているんだろう?

正しいことばかりを強制するやり方は、パワハラをも連想させた。それくらい、先生が思い描く「理想のクラス運営」を正義でごり押しし、教師の理想通りに対応できない子供には休み時間を減らす。おやつタイム(息子の学校ではランチタイムがやたら早かったから、午後のおやつタイムは心身ともにとても必要な時間である)を無くされた子供もいた。

学校側が望む生徒の態度と対応がどういうものかは理解している。がしかし、小学生はできないことをどう乗り越えていくのか?どうお友達と折り合いをつけていくのか?小さな人間たちはどうやって自分のした問題を解決できるのか?お友達と喧嘩したなら、お友達も交えて一緒にお互いの気持ちをシェアしそこからお互い学ぶ。そういった経験こそが小学校へ行く意味があるんじゃないだろうか。

関係性に上下があるような場合、例えば親と子の間でも、似たような状況に陥ることはよくあるように思う。親は正義を振りかざし、子供へそのもろ刃を振りかざし、ただ従わせている時はないだろうか。

私自身、この息子の学校生活の経験から、単に「子育てする母親」ではなく、「この子を育てる親」として、自分自身を見つめ直すきっかけになった。息子にとって、団体行動を求められる学校と言う社会生活の意味は何?同学年同士しかほとんど交流の無い社会に身を置き続けることとは、息子にとってどういうことなんだろう。

そもそも学校ってなんのためにあるのだろう?そして、誰のために?

***

学校の校長、そして今年の担任の先生方は、息子に心を砕いてくださっている。感謝でいっぱいだ。でも、学力能力は高いが、短期間の記憶能力が弱く、視覚優位なため必要な情報だけをフィルターにかけて記憶し処理するという同時作業能力が弱く、心の成長はゆっくり、という彼にとって、この場所は今は最適なのだろうか?

もしも彼が今の学校をやめたいとなった場合に、違う選択もできることを知らせたい。他の公立校や私立校も考えている。でも、学校という枠組みの中では、彼に必要なサポートにはやはり限界があるように思う。

何故なら、結局彼にとっていつも「がんばる」ということばかりが要求される環境に身を置くことになりそうだからだ。がんばったらいい結果が出た、もしくは予想と違ったけれど結果楽しくできた、という幸福感・満足感を得られる経験が、「できないこと」を補う大きなエネルギーになるのはわかる。でも、その経験が極端に少ない彼にとって、「がんばれ」というのはどの程度価値のあることなのか。自己肯定感が低くなってしまった彼に「できないこと」を「がんばる」というのは、定型発達の私が経験してきた「がんばってやればできる」というのとは根本的に違うものだ。

選択肢のひとつとして、前々から興味があったホームスクーリングというやり方を調べ始めた。幸い私たちが住む街には、ホームスクーリングをする家族も結構多いようだ。別に発達障害を持たずに、家庭の教育方針でそうしている家庭も多い。

勿論彼の成長リズムとペースでできることは増えている。でも、画一的なシステムの中、同じ年齢、大多数が同じ発達段階の子供たちという環境で過ごす毎日というのは、相当なストレスとプレッシャーではないかと感じる。他の子と比べるなというほうが所詮無理な環境ではないだろうか。そして彼の特性でもあり性格でもある負けず嫌いで完璧主義なところは、彼自身がどう折り合いを付けられるのか?

ほどよいストレスは自分の心を鍛える。でも、その「ほどよい」ってどれくらい?自分はどうせダメなやつで、できない子だと自分を否定している人間に、どういうサポートが適切なのか?

息子が通う学校のように、様々な人種や環境の子供たちが集う経験は、学校に通わないとできない経験だ。でも、その多様な環境と生まれ持った特性を持つ子供たちを、年齢だけで区切るには限界があるのではないだろうか。目で見える違いを持つ人間だけでなく、目では見えない部分である、ものの見方、感じ方の幅が違うのが私たち人間なのだ、ということを、子供たちの目線で実感できる環境にいる。そういう時間を持つことが、子供時代にはとても意味があるのではないだろうか。

***

彼の感性の鋭さとクリエイティブな発想。そしてのめり込んだら物凄い集中力を発揮する。そんな彼の心をぐぐーっと伸ばしたい。縮こまってしまった心をぐぐーっと大きく。そして昔のように好奇心いっぱいで、笑顔がいっぱいな息子の心を取り戻したい。

自信を取り戻した時の彼はきっと自分で道を歩いていける。私はそう信じている。

子供には色んな事を体験し、自分で決めて行動できる人になってほしい。自分で決められることができるなら、たとえ結果が不本意でも納得できるし前に進めるからだ。人生そんなに自分で決めて生きていけることばかりじゃないことは承知の上だ。

私は子どもの頃から親に、あなたはあなたの人生なんだから自分で決めなさい、そしてあなたはやればできる、と言われて必死にやってきた。私はやればできる。そういう経験と自負をもって生きてきた私。

でも、やってもできない子もいることを息子は教えてくれた。どうやったらいいのかを自然と自らの経験と照らし合わせて学ぶということができない。又は照らし合わせることはできても、その先の問題解決処理がとても遅いがために、同じような問題に毎回つまづく。でも確実に彼の速度で成長している。そんなことを息子は教えてくれた。小さな心で精一杯。

そしてお空に帰ってしまった小さな小さなお豆ちゃん。二人目が欲しいなとぼんやり思い始めて間もなく授かった命だったが、ある日逝ってしまっていた。世の中には笑えない事実がある。変えられない事実も起こる。でもそこからどう進むかは、自分の意志で決められる。そういう意味で、自分の人生は自分で進んで行ける人になってほしい。いや、私もそういう人生の進み方をこれからもしていく。

母親業を初めてまだ1ケタ。でも、今年はアメリカに来て10年という自分にとって感慨深い年だ。泣いても笑っても子はどんどん育っていく。次の10年、自分の年齢もぐっと高くなる。母親業だけでなくプライベートな自分の中身も大きく変わっていきたい。

なによりも、色々迷いながらも進んできたこの移住生活10年目の自分に、特大のはなまるをあげたい!

神社で念願の初詣も、今年初めて行けた。今年はまた変わるぞ、自分。どう変わるかは、まだわからない。でも、そう強く決めた時点で去年の自分とは違うんだ。このブログだってその1つ。

まずは、丁寧な暮らしをしたい。意識を今していることに向ける。それだけ。でも、これが難しい。お味噌汁を飲んでいるなら、先の予定を考えたりせず、具の味や味噌の風味を噛み締める。テーブルに飾ってあるお花をじっくり眺める。息子と娘を抱っこしてただじっと笑顔で見つめる。抱きしめる。そんな風に一瞬一瞬の積み重ねをして暮らしたい。

そして鏡で自分の顔や体型を見てため息をついてばかりいた自分と今年こそおさらば(古い?)したい。いや、する~~!

最後に何度も書いては直し書いては直しして予定より大分遅くなっても、いつもじっと優しく見守っていてくれたなべさんに感謝!ありがとう!

 

記:えくぼ

 

↓ 写真は、ふるさとの風景。何かあったらすぐ海へ。何もなくても海へ。いつも海と星を眺める環境があった。子供のころの自分はそのことに気が付かなかった。豊かな自然に感謝。その土地に感謝。

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34歳 アスリートエージェント

「素直に一歩前へ」

2013年1月某日、毎年恒例の高校仲間との新年会書き初めでこう書いた。

毎年お正月にキラキラと充実した人生を送っている(と少なくとも私には見える)友達と会うのは、とても刺激を受けるし大切な時間だ。

 

当時の私はレコード会社で働いていた。

親が喜んでくれた企業の内定を蹴り、激怒されながらの就職だった。

インディーズ担当と地方営業を経て、24歳でミリオンヒットアーティストのA&Rに何故か抜擢され、戸惑いながらも音楽業界人としてはかなり恵まれたキャリアだったと思う。

 

<A&R:Artist & Repertoire>

レコード会社のアーティストブランディングと収支の責任者ということが多く、発掘、育成、楽曲制作、タイアップ、宣伝、営業、ライブ制作、マーチャンダイジング、デザイナーなど、あらゆるセクションとアーティストの間に立ち、アーティスト&マネージメントと相談しながら、責任者として各業務のジャッジ・確認をする仕事。だと思っています。

 

休みもなく、徹夜も当たり前の日々の中、このままガムシャラに働いていていいのだろうか。

目も前の仕事をこなすだけじゃ意味がないんじゃ。。。そもそもこのアーティストの魅力ってなんだっけ。。。私のやりがいってなんだっけ。。。

と、自分の中で疑問が増していったのが27歳の時。

 

話は飛ぶけれど、私は「26歳のジンクス」を信じていた。

これは私が勝手に作ったジンクスなので、聞いたことある人はいないと思う。

私の尊敬するアーティスト、プロフェッショナルな仕事をする人たちは、26歳の時に何かのきっかけに出会っていることが多く、私も26歳の時に何か出会いがあるはず、なければ自分にとっての天職には出会えないのかもしれないと本気で思っていた。

 

話は戻って、28歳の時に転職の決意をした。

「素直に一歩前へ」

大好きな友人達と一緒に書いた書き初めを部屋の壁に飾った時、何かが吹っ切れた。

年明け初の出勤日に上司の元に行き、退職希望を出した。

 

退職してから3ヶ月後、今の仕事に就いた。

スポーツには特に興味がなかったので、まさか自分がスポーツ業界で働くことになるとは、人生分からないものだなと思う。

 

今は某スポーツ選手のアスリートエージェントとして働いている。

そのアスリートとの出会いは2010年、当時担当していたアーティストと一緒に仕事をしたのがきっかけだ。

その人のプロフェッショナルな姿勢に感動して、やっぱ本物のアスリートってすごいんだなぁ。いつかこんな人と働いてみたいかも。と思ったのを覚えている。

前の会社に退職希望を出した時、真っ先に思い浮かんだのがそのアスリートのことだった。

当時のエージェントに連絡し、担当として私を雇ってほしいと伝えた。

突然のことで相手も驚いていたけれど、すぐに担当にはできないが(今思えば当たり前)、営業としてなら社員採用が可能(よく採用してくれたなと思う)となった。

 

迷わず入社し2年後、晴れてメイン担当としてエージェント業務を任されるようになった。

今はエージェント業の他に、前職の知識を活かしてアスリートをメインとしたショーも企画している。

プロデューサー業は大変だけれど、自分が思い描いたものを各セクションのプロフェッショナルが創造していく過程や、想像を超えたものが完成し、それを観た観客が感動して歓声を上げてくれる瞬間は、何とも言えない感情が込み上げてくる。

 

担当アスリートはとても尊敬できるし関係も良好、ショープロデュースの仕事も大変だけど楽しい、更には前職の仲間とも未だに仲が良く、一緒に仕事をすることもあったりと、今はとっても充実したワークライフを送っている。

流されるのではなく、自分で考えながら、自分らしく仕事が出来ていると思う。

当時は色んなことに必死で気づいていなかったけれど、最近ふと26歳のジンクスを思い出した。

私がそのアスリートと仕事をしたのは2010年、26歳の時だった。

あ、私、出会ってたかも。。。

 

そんな私の今の不安は将来のパートナーがいないこと。

今まで結婚を考えた相手がいなかった訳ではないけれど、振り返った時、結婚しなかったことを後悔した相手もいない。

仕事のやり方は分かるけど、旦那の作り方が分からない。。。笑

将来を考えた時、やはり結婚したいし子供も欲しい。

仕事で親不孝した分、せめて結婚で親孝行したい。

 

で、今気になっている人が二人いる。(小学生かっ!)

 

一人は才能溢れる人で、彼の仕事をとても尊敬しているし、良き友人として長い付き合いなので、お互いの性格もほぼ知り尽くしていると思う。

とても優しい人なので、奥さんになる人は幸せだろうなぁ。

ただ、兄妹のようで恋愛対象として今まで見たことがなかったから、今後そう見ていけるかが謎。

 

もう一人は、とても真面目で信頼出来そうな人。

いつもフラットに仕事をしていて、その安定感を尊敬している。

何度か二人で食事をするうちに、この人いいかもと思い始めた。

のですが、つい先日、ニューヨークへの赴任が決まりそうだとの衝撃発言が。。。

その話を聞いた時、いってらっしゃーい、というよりは、ついて行って支えたいかも、と思った自分に少し驚いた。

 

私が気になっているだけで相手が私を選んでくれるかは別だけれど、久しぶりに気になる人が出来たのはいい傾向かなーなんて思っている。

結婚した皆さん、どうやって相手を選び、どうやって相手から好かれたのか教えてください笑

結婚の決め手ってなに???

 

もう一つ、今の自分が迷っていることがある。

 

転職だ。

 

散々26歳のジンクスだの、今の仕事は最高的なことを言った後に何なんだって感じだけど。。。

 

8歳の頃から大好きなアーティストの現A&Rから、後任にならないかと誘いを受けた。

過去、他社に誘われる機会は色々あったけれど、どれも迷わず断った。

ただ、今回は別だ。

 

ずっと大好きで、憧れて、勇気をもらってきたアーティスト。

何度その歌詞とメロディーに励まされたことか。

そこからのまさかの指名。

 

あまりにも驚いて、その日は仕事が手につかなかった。

 

今の仕事も続けたい、でもA&Rもやってみたい。。。

結婚もしたいし子供も欲しい、でもそうすると転職してる場合じゃない・・・?

あと5歳若ければ、こんなにグチグチ考えずに、自分の感覚だけを信じて決められるのに。。。

なんて、色んなことを考えてしまう。

 

結婚出来るか出来ないか、転職するのかしないのか、人生の転機が訪れている気がする。

自分だけではどうにも出来なかったり、すぐに決められなかったりすると思うけれど、自分なりに考えて結論を出してそれに満足出来た時、また作文したいなと思います。

 

記: E.T

 

↓仕事柄海外出張が多く、去年の3月から行った国のマグネットを買うことにしてみた。

これが全部旅行だったらなぁ。。。笑

34歳 フリー

自分が何者でもない気がして、とても怖かった数年前。

そこを乗り越えて、めちゃくちゃ一生懸命頑張っていたら、

今度は一時的に、何でもない人になってみてもいいかな、なんて思うに至った。

 

最近仕事を辞めました。

 

◆5年前の私から

5年前にも、作文をさせてもらってるのだけれど、コーヒーチェーン店でアルバイトをしていた私はその後、その会社で社員になり、店長試験にも合格することができた。

そのプロセスの中では、自分のコンプレックスの壁に、何度も向き合ってきたように思う。店長になろう!と決めて、成長したくて。

でも、頑張っても、褒められても、「自分はだめなやつだなぁ」という気持ちが拭えなくて、ひどく落ち込む日々が続いた。

自信がないから、前向きにすべてを受け入れ、ひたすらがむしゃらに頑張る。その様子を見て、人は私のことをやる気満々超ポジティブ人間に思ってたと思うけど、それは自信ないの裏返しなんだよーって。

 

そんな中で、心優しい仲間や上司に恵まれた。

信頼する人たちが私のことをいつも本当によく見ていてくれて、私が落ち込むときにはちゃんとアドバイスをくれたり、たくさんたくさん私のことを褒めてくれたから、その人たちの言葉をは信じることができた。

それからだんだんと自分のことを、客観的なまなざしで「よくできてるね」って認めてあげられるようになった。

本当にこれは周りの人たちのおかげ。

 

◆仕事を離れよう!気づいたことがたくさん。

「どうして仕事辞めるの?」

いろんな人に聞かれた。

 

辛い苦しいことが影響していた訳ではない、たぶん。とても愛着のある仕事だったから。

とはいえ、辞める前に心身バランスの悪いときと言うのはあった。不規則な生活だったし、残業も多かったし。毎月のように風邪を引いたり、不注意の怪我が続いたり、蕁麻疹を発症したり。

いろいろありながらも、これまで、まぁ順風満帆と言えるでしょう、という成長を実感してきた中で、なんだか別軸で、どこか歯がゆい感じがきっとあって、頭では納得させていたけど、心身はそれを敏感に感じ取って、声を上げていたのだと思う。

それは何かに対する不満というよりは、(誰かのせいにしてたってしょうがないわけだし)いろんな経験をしてきた中で、物事の優先順位も変化してきたってことだと思う。

見た目も気持ちもそんなに20代と変わっていない気がするけど、やはり体力は衰えてきているし、考え方にも深みが増してきた、ようにも思う笑

難しい課題でも解決していこうと頑張るエネルギーはある。ただ、自分ではどうにもできなそうな問題が自分の体を苦しめるのであれば、ちゃんと自分の体を大切にしていく方法を考えなきゃいけないと思った。

仕事のために人生があるんじゃない。人生をよりよく生きるために仕事があるのだ!

あと、5年前よりは確実に自分に自信がもてるようになった。

たくさん学ばせてもらって、仲間が増えたことで、たぶん私はここじゃなくてもやっていける、と思えた。やりたいことやなりたいもの、求めている成長は、今の自分のいる位置の先にあるものばかりじゃなさそうだなぁ。なら、ステージを変えてみても、いいのかも。

→必ずしも自分の今いる枠の中で、敷かれたレールの先を見て物事って考えなくてもいいんじゃない。

 

◆わくわくしたから選択できた

ずっといつかは・・・と思っていた語学留学に行くことにした(2ヶ月だけ)。

仕事のキャリアについて考えている中で、今自分のやりたいこと、やっておかないと後悔するかもしれないな、ということを考えてみたらそれは語学留学なんじゃないかって思い始めてきて、もしかしてそのタイミングって2、3年後より今(結婚もしてないし現状予定もない今!)の方がよっぽど現実的だなって考えた。

じゃあ、今やった方がいいじゃん、やってみたほうがいいよ。

ちゃんと心からやりたいこと、頑張ろうと思えること、わくわくすることに目を向けた方がいいよ。

そう自分の心が言っていた。

と、言うわけで、私はすっきりさっぱり退職を決めた。

 

私って、つくづく、「苦しいから辞める」っていう発想はないんだな、と思った。すごく負けず嫌いだから。

でも、何か悩んでて新しい選択肢が浮かんだとき、

「どうやらこっちの方がいろいろと楽しそうだ!」と思えると、わくわくして、前向きな選択ができる。

人間は、「~しなきゃいけない」って気持ちじゃなかなか動けない。

「楽しいからやる」って、とてもシンプルで高いモチベーションになると思う。

 

◆30代はとてもたのしい!

お客様や同僚に退職のご挨拶と留学の報告をしたら、たくさんの人に、「それってすごく良いアイディアだね!」って言ってもらえた。そんな周囲の反応は、私にとってはちょっと驚きでもあったし、また、よりいっそう心を躍らせてくれるものにもなった。

同世代、ちょっと年上の同僚や、お客様などからは、

「もう私にはそういう選択できないからうらやましいな~。」とか、

「自分も30代半ばで転換期があったから、その気持ちすごくわかるよ!」とか、気持ちいいほどに前向きな応援メッセージを頂いて、とても心に響いた。

いろいろ経験してきた30代は、何かを選び取ること、受け止めることに対してちゃんと「幅」みたいなものがあって、多種多様な人が生き方があることを、身をもってよく知っている。

お話をして、

ああ、すてきなひといっぱいいるなぁ30代!

まだまだこれから!めっちゃたのしいなぁ~!

とも思えた。

 

最終出勤日までに、沢山のお客様や、かつての同僚などが会いに来てくれた。

自分の中で、ここに来るまで全く迷いはなかったけれど、それでも、仕事が大好きで、つい最近までこの仕事を離れることなんて全く想像していなかったから、終わってみたら、

私、本当に仕事辞めちゃったのか~

なんて、ちょっと不思議な気持ちにもなった。

けれど、私がいなくなっても、今まで何百人(何千人?)と関わった人たちの心の0.001%くらいには、何か残せたんじゃないかなぁ。だから、大丈夫。

 

しばらくの間、私のテーマは「ちゃんと自分を大切にして生きる」になると思う。

思い返せば。頑張り屋さん体質のあまり、使命感や、正義感、責任感が強くて自分を大事に出来ていなかった。これからは、自分の心と体が元気でいる!ということをちゃんと優先順位高く向き合おう。

でも、直近の願望は、とりあえず、痩せたい(笑) ダイエットがんばる!

留学ももちろん頑張る!楽しむし、一生懸命勉強する!

結婚もしたい。すてきな男性は、まだ現れていない。

もう、30代も半ばだし、この先自分は、ちゃんとすてきな人(かつ、自分を好きになってくれる人)と出会えるのだろうか、それも地味にとっても不安。

ただ、この一年で、ほんの少し大きめの選択やチャレンジをしたことを、自分でちゃんと受け入れて楽しめているから、きっと、そんな変化が幸運を引き寄せてくれるだろう!

今はそう信じて、健やかに楽しく成長していければ、それでいいかな。

 

記: えりご

 

↓仕事終わった3日後には、ブログ管理者さんのお家(海外)に遊びに行ってました。

毎日規則正しい生活をして、ファミリーと遊んで、近所の公園で素晴らしい景色を満喫することで、たくさんのエネルギーチャージが出来ました。

なべさんファミリー、9日間本当にありがとう☆

34歳 人事

6年前、28歳の時に作文を書かせてもらった。

その時は、プライベートが自分なりに落ち着き、仕事でもITのプロデューサーになると心に決めて、ようやく何か迷いがある状態から抜け出した時だった。

私は今、インターネットサービスのプロデューサーではなく、人事の仕事をしている。

たしか、作文を書いて1-2ヶ月後に人事への異動の声かけをしてもらい、一晩考え、すんなりと「興味あります」と答え、今に至るのだった。

今は、結婚をし、仕事もある程度人事として責任のある仕事ができている。

社会人となって、二人目の尊敬する恩師のような人がいて、この6年間はその人のもとで人事で様々な経験をしてきた。

人事といっても、とても様々な仕事がある。わかりやすいのは採用や人事制度づくりや給与や福利厚生などかと思う。

私は6年前に「興味あります」と答えたのは、世の中に面白いサービスを生み出すプロデューサーになるためには、①ユーザーの役に立つサービスを作ること、②そしてそれをビジネスにできること、③最後に組織を作ることができること、の3つが必要だと思っていたから。そして、複数のプロジェクトをみてきて、どれだけ良いアイディアや仕組みがあっても意外と3つめが課題となってることが多かった。

IT業界の企画なんて、そこら中にいる。明らかにこれから必要とされるのは、エンジニア、もしくは、技術がわかる企画だった。そんな中で、文系な(大学時代にプログラミングは基礎授業までで諦めた)自分がユニークさを持てるとしたら、なんだろう、と考えた時に、3つ目の「組織が作ることができること」だった。これはすんなりくる。組織と人に強い人になろう、と。

だから私は異動のお話にyesと答えたのだ。良いサービスを作るために、良いビジネスを作るために、どんな組織を作り人を育てるべきなのか、これをやりたかった。

運よく私は、まだあまり当時の日本の企業の人事部にはなかった、組織開発という分野の仕事を担当させてもらうことができた。

この定義はとても広いので、ここでは書かないが、まあ自分が課題に思っていたことに対して、ぴったりという分野が世の中にあり、アカデミックな世界にもあり、まだ定着したやり方もないとてもチャレンジングな仕事で、自分にもとてもあっていたと思う。(自分ではよくわからないが、人事になってから友人たちに、合っていると思う、と言われることが多くなった)

そして、4年間没頭してみて、私は恩師を超えられないと思った。尊敬する人のもと、ずっとやってきているので、その考え方以外に軸を持てていないのである。

組織開発だけでは解決できないこともたくさんあったし、新卒で入社した会社にいるものだから、世の中のほかの会社の組織や人やその人事の仕組みを知らない。そして日本中、世界中にいる人たちにとって働くということはどういうことなのか、自分の会社の人しか知らない、ということに疑問も持ち始めていた。

そんな折に今度は、IT企業とは全くかけ離れた業界の人事で1年間働く機会をもらった。いわゆる出向という形である。

1年間は本当に刺激的だった。経営者が決断すべきことはなにか、いわゆる日本の家族型の経営とは何か、今の会社よりも大きな大企業で日本全国のざまざまな雇用形態の人たちが働くとはどういうことか、そのために会社が大事にすべきことは、人や組織が変わるとはどういうことか、など多くのことを仕事を通して学んだ。

ちょうどこの間に私は結婚し、自社で1年間のリーダーシップの研修も受けていて、仕事-家-学ぶ場所とう3つがあって生活もとてもバランスが取れていたと思う。

自社に戻ってからはこれまで人事の中でもやったことがなかった、the人事の仕事をやっている。1年間出向させてもらっていた分、戻って自社で頑張らなければ、貢献しなければ、という気持ちが強く、想像以上に忙しい日々が続いている。

さて、ここまでくると順風満帆、充実した日々のようだろうと思う。

実際ありがたい環境で、いい人たちに囲まれて仕事をしていると思う。

ただ、34歳である。人事としてダイバーシティの仕事も担当した時期もあり、女性の卵子は34歳から減る、というデータだって目にしているし、たくさんの女性の先輩たちのキャリアをインタビューする機会もあった。

だから頭ではわかっているのである。家族を持つならそろそろ、と。

どれだけ「早い方がいいわよ」と言われても、今の仕事が面白く、そしていわゆる管理職もやりながら周囲の人たちと切磋琢磨していると今スピードを落とすのか…。いざ自分にとってリアリティがでてくると、それなりにジレンマなのだ。

私は自分では気づいてないうちに、いつのまにか120パーセントで物事に取り組んでしまう気質。だから80パーセントくらい、と思って働いていかないといろんなことに余裕がなくなる。

産業カウンセラーを勉強中だが、大学院にいって人や組織の勉強をしたい。

もちろんバイタリティを持ってやれる人もいるが、社会人の学ぶ環境もどんな女性でも挑戦できるものになってないんだなーとか。色々思うことはある。

と、これからの5年くらいを思ってどうやっていこうと思って焦っていたら、この1ヶ月で恩師や尊敬する女性の上司と話して私なりに少し肩の荷がおりた。その時の言葉を。

・家族をつくることはよいこと。考えているなら早い方がいい。焦らなくても、もっと学ぶ環境も変化するから大丈夫。

・あなたのタイプなら、仕事のペースを緩めたいと言わない方がいい。男性上司たちは急にびっくりして思った以上にブレーキをかけた配役になったりしてしまう。女性の方がのんびりキャリアを考えていられないのだから、もっと挑戦したいことを言えばいいのよ。もし妊娠したり体調が心配になったらその時相談すればいい。

・働き方は、意思決定。

ここから、どんな風に家族と過ごし、どんな風に働き、どんな人間になっていけるのか。

正直明確な道なんて見えていない。

仕事だったもっと人事として色々経験したい、極めたいと思っているけれど、前回ここで作文した直後のように全く違う道に進んでいる可能性だってある。

でも、なんとなく楽しみ。

キャリア理論の中で、とてもしっくりくる考え方がある。

クランボルツ教授のプランドハップンスタンス(計画された偶発性)。

その精神で、もう少し考えつつ、身を委ねつつ、自分で決められることは選択していってみようと思う。

記:a.s

↓ ミラノにて。どこへでも行けそうでわくわくする。